沖縄に行ってきた。
以前から、織物関係の方に「行ったほうがいい」と言われていた、琉球絣の町、南風原町。
南風原町は繊維事業の盛んな町で、沖縄の伝統工芸品である「琉球絣」「南風原花織」の産地でもある。
南風原で織物の生産が本格的になったのは大正末期から昭和初期で、町の訓練学校で織り子の育成が始まったそうだ。やがて職人が南風原に移住してくるようになり、町の織物の技術も上がっていった。
しかしその後、第二次世界大戦の激戦地となった南風原は多くの織り子や技術者を失った。戦争未亡人となった女性たちは、生きていく術として機織りの仕事に邁進した。原料の糸の入手も困難な状況下、軍の払い下げ品の中からロープなどをほぐして織りの材料にも使ったそうだ。また、戦後、名護市に住んでいたアメリカ人宣教師ウィリアム・ハイオ氏が母国から取り寄せた織物の専門書の織図をもとに、南風原の織り子さんたちが独自に織り方をアレンジし、南風原オリジナルの織物として定着させた織物は「ハイオ南風原織」と呼ばれている。
そして戦後、南風原町は沖縄有数の「織物のまち」として全国的に知られるようになった。現在、町内には「かすりロード」や「琉球かすり会館」、数々の織物工房が点在している。
これまで多くの織り子を育成してきた「琉球かすり会館」にお邪魔してきた。
研修室では、6名ほどの研修生がプロの織り子を目指して先生の指導を仰ぎながら、機織りの作業を行っていた。
かすり会館の研修生になって2年という女性の機織り作業をしばらく見学さした。とても緻密な花織に見えたが、商品としてはまだまだ値段がつかないのだそうだ。織りの道の厳しさを思い知らされた。
生まれて初めて、足踏み式の機織機で織物を織った。
町で見つけた絣の模様。トゥイグワー(鳥)が好きだ。
町のあちこちに織物工房がある。
首里のほうにも出かけてみた。
「首里織」は、首里に伝わる様々な紋織、絣の織物の総称で、格式の高い「首里花倉織」「首里道頓織」をはじめ、「首里花織」「首里絣」などが有名だ。「花織」は立体感のある織り方が特徴で、原材料は絹、木綿、麻、芭蕉糸を用い、沖縄の植物を染料として使うことが多い。
首里織の工房は、レンタカーが転げ落ちるかと思ったくらいものすごい傾斜の坂の下にあった。
私が伺った日も、6名ほどの研修生が織りを学んでいた。
織り子を目指している女性からお話を伺った。長年務めていた会社を退職し、織り子の修業を始めて半年になるそうだ。量産品の衣料品が簡単に手に入るのになぜ手間も時間もかかる手織りで布を織るのか、周囲の方々に笑われたり悔しい思いをしたそうだが、手仕事のすばらしさに目覚めてしまったので、今後機織りで食べていけるようになるまであきらめるつもりはないとのこと。
その表情の輝きに勇気づけられた。
染織室。
この日は染織の研修がお休みで、染織の作業風景を見学出来なかったのが残念だ。
県立博物館、面白かった~!
紅型染の原型が美しい。
絣の図案。
うっとりしてしまう。
初めての沖縄だった。
地に足のついた、沖縄のゆるぎない工芸文化をこれでもかと見せつけられて、本土に帰ってから熱を出してしまった。
しっかりしなくては、と思った。
今度は実践。
都内の織物教室で、足踏み式織機の基本の基本を学んだ。
ランチョンマットを織ることにした。
生徒さんたちに綿花栽培の話をしたら、さすが織物に取り組んでいる皆さんだから、興味津々で聞いてくださった。
すごくうれしかった!
皆さんに綿花の種をプレゼントした。
私、すごく不器用で、時間内にランチョンマットが仕上がるか不安だったが、先生にサポートしていただきながら、どうにか形にはなった。
しかしながら、噂には聞いていたが、糸張りのセッティングだけで9時間、織りに3時間。糸張りする手間と時間に比べると、織るのは(もちろん決して簡単ではないが)あっという間な感じだった。
ギンガムチェック、好きだ。ギンガムチェックの模様のしくみが初めてわかったわ。
自分の作った綿が、布になる日を楽しみにしている。